Help

05.03.03.円通寺(荒川区)

  • 74

Photos: 05.03.03.円通寺(荒川区)

Photos: 05.03.03.円通寺(荒川区) Photos: 19.09.12.早朝。荒川区から見る埼玉県南東部

慶応4年(1868)5月。上野山内にて戦死した彰義隊の遺体は、賊軍ゆえに散乱放置されていた(`皿´)



mixiアルバム「円通寺(南千住1丁目)/永井尚志・土方歳三/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000001460277&owner_id=32815602

2010年10月27日 00:14
05.03.03.
●開基、坂上田村麻呂。伝・791年。
再建、八幡太郎義家。
江戸時代、「下谷の三寺」として下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、箕輪の圓通寺として有名だったそうで。
下谷生まれの幕臣、志士は多いんだよね。当たり前っちゃあ当たり前なのかな?

●戊辰――上野戦争は05.15。官軍は大村益次郎。西郷吉之助が正門(黒門)。
寛永寺に立て込んだのは、天野八郎率いる彰義隊。隊士は、元々は慶喜の身辺警護のため、旧一橋家の家臣を中心に結成されたものだったが、抵抗派の幕臣たちが次々と参加、500名に上った。さらに竹中重臣の純忠隊、関宿藩の万字隊、高田藩神木隊などが加わり、総勢1500名…\(◎o◎)/!
07時開戦、16時決着…。1日で片が付いてしまった、されど激しい戦争…(T_T)
(佐賀藩のアームストロング砲が……┐(´Д`)┌)
現在の上野公園は、元は広大な敷地であった寛永寺の一部、というか半分。

●彰義隊のことは上野山1をご照覧あれ。

●黒門──(フォトの所は別の文章に使ってしまったので、ここで)
黒門とは、「東叡山寛永寺」の「総門」、「聖域上野山の総門」の事で、上野戦争の最激戦地です。
門があった場所は、現在の公園内「清水観音堂」西側辺り。
円通寺に下賜(明治40年帝室博物館より)された黒門には、無数の弾痕があり、激しい銃撃戦の様子を物語っています…(/_;)

●永井尚志──読み方は諸説(なおゆき。なおのぶ、ひさのぶ、なおつぐ、ただゆきetc)。
1816三河奥殿藩生まれ。
1830旗本永井能登守養子。
1853目付。長崎海軍伝習所総監理。外国奉行(通商条約調印)。軍艦奉行。
1859安政の大獄で罷免、失脚(一橋派)。
1862京都町奉行。大目付。若年寄(旗本最高位)。
第一次征長、総督徳川慶勝補佐。
第二次征長、長州問罪使として長州出向。この際、近藤勇、伊東甲子太郎ら新選組隊士9名が身分伏せて同行している。
1867近藤勇と後藤象二郎の会談を仲介。
1868戊辰開戦。慶喜とともに帰東。榎本艦隊同乗、蝦夷共和国函館奉行。
──しばし獄中。
1872開拓使御用係。左院小議官。元老院権大書記官。
1891逝去。

●榎本、大鳥は明治政府でのデカイ、裏での働きを書いときました。
蝦夷共和国の要人が誰も断罪されずに済んだのは、黒田清隆が頭を丸めて助命嘆願したから\(ToT)/

●歳三の最期は……「俺が近藤勇と共に死ななかったのは、どうしても徳川の汚名を晴らしたいと思ったからだ。もし降伏をして許されでもしたら、あの世の近藤に会わせる顔がない」(勝手に意訳)。歳三には勇に対して死に遅れたという思いがあったようだ。そのため勇を失った後の歳三は、死に場所を求めて戦うようなところがあり、転戦を続けてきた。「もっとも、この度の一挙は、300年の間幕臣を養ってきた幕府が倒れようとしている時に、命をかけて抵抗する者がいないのを恥じてのことだ。到底勝算あっての事ではない」
既に榎本は玉砕よりも降伏の道を講じていた。しかし歳三には降伏という道はありえなかった。もはや勝つための戦いではなく、武士としての節義を貫くためだけの戦いとなっていた。
徳川慶喜が高幡不動を訪れ、歳三の碑文を読み、無言のまま落涙したとか。
(高幡不動“殉節両雄之碑 故 近藤昌宜・土方義豊碑”「唯 死あるのみ。即ち寛典に処すとも 吾何の面目あって また昌宜と地下にまみえんや」)
(ここで歳三のことを書いてしまうのはちょっち違うけども……(^_^;))

Favorite (0)

No one has added this photo to his favorite.

Comments (0)

"No comment yet, please write the first comment.

To make comments on artworks, click Login. User registration here.