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田口城(田ノ口城。佐久市)

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写真: 田口城(田ノ口城。佐久市)

写真: 田口城(田ノ口城。佐久市) 写真: 田口城(田ノ口城。佐久市)

mixi記事コピペ――2015年02月28日 22:34
●小山田信有――
生年不詳(1519?)〜天文21年1月23日(1552年2月17日)。
郡内小山田氏当主。小山田出羽守。
父は小山田越中守信有。母は武田信縄娘(?)。
子に小山田弥三郎信有、小山田信茂。
法名は長生寺殿契山存心大禅定門。

郡内小山田氏→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2086718646&owner_id=32815602

永正7(1510)年、小山田氏領国と接する諸国と抗争を繰り返していたが、越中守信有と武田信虎との間に和睦が成立。「武田源氏一統系図」などによれば、武田氏と和睦した越中守信有は武田氏と姻戚関係を結び、出羽守信有は武田氏の女子を母として誕生している。
享禄3(1530)年、越中守信有は郡内支配の拠点を中津森館から谷村館へと移転。
天文2(1533)年、一門衆として迎えられた出羽守信有は甲府に屋敷を与えられ移住する。
天文9(1540)年、嫡男 弥三郎信有誕生。
同年、武田家で当主追放事件。武田晴信が当主となった。出羽守信有は弟 信義とともに引き続き晴信に仕える。
天文10(1541)年、越中守信有が死去。嫡子長兄 小山田虎親も同年に死去。出羽守信有が家督を継承した。
※越中守信有は知勇に優れ、参謀としても力を発揮、郡内勢が得意とする投石隊を指揮していたといわれる。

出羽守信有は信濃侵攻の多くに参陣している。天文11(1542)年、諏訪攻略にはじまり、伊那、佐久へと展開する晴信の信濃侵攻には尖兵となって活躍。
天文16(1547)年8月、佐久郡侵攻においては、志賀城主笠原清繁の夫人を側室として与えられ、駒橋へ連れ帰っている。
天文17(1548)年2月、上田原合戦。
こののち反旗を翻す佐久の諸勢力鎮圧に転戦。
天文19(1550)年8月、戸石城攻城戦。後衛の鉄砲隊。
戸石崩れ→

同年10月1日、撤退するところを村上勢の追撃にあい信有は負傷、家臣らも多くが討死した。
天文20(1551)年、小笠原氏掃討の筑摩郡侵攻において信有は病床にあり、嫡子 小山田弥三郎信有が参陣している。
天文21年1月23日(1552年2月17日)、病没。傷も癒えぬままだったという。葬儀には1万人が参列し、郡内一番の弔いになったと伝えられている。


※出羽守信有期には無年号文書を含む8通の文書が現存している。
越中守信有期の発給文書は現存していない。
天文11年10月16日付小山田信有判物は小山田氏最古の発給文書。内容は諸役・棟別免許や過所など。
出羽守信有文書には花押と方形単廊朱印が使用されており、以来この方式は信茂期に至るまで継承されている。
山梨県都留市下谷の長生寺に伝来する小山田信有画像はこれまで越中守信有に比定されていたが、高野山過去帳による出羽守信有の法名と修補銘に「契山存心」と記されていることから、画像は出羽守信有のものと考えられている。

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