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英国公使館跡推定地(品川区北品川)

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写真: 英国公使館跡推定地(品川区北品川)

写真: 権現山公園(品川区北品川) 写真: 英国公使館跡推定地(品川区北品川)

19.05.09.



mixiアルバム記事コピペ――
2010年11月15日 18:49
10.11.02.
●品川区 旧東海道中記――
品川はちっこい頃より馴染みがあり、何度か歩いてます。 初めて目的をもって歩いてみましたが、まあまあまあまあ! 楽しかった。おもろかった。見尽きない…!
しかし。疲れた…。高輪から立会川まで、目的の箇所プラス多々……徒歩4H40M。

※「品川」という地名は、目黒川の別名説、高輪に対して品ヶ輪とした説など種々あり、明確に分かっていない。
言葉の初登場は元暦元(1184)年の田代文書。


●江川太郎左衛門英龍――江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門、または号の坦庵(たんなん)の呼び名でよく知られている。地元の韮山では坦庵と書いて「たんあん」と読むことが多いようで。
洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田十松に学ぶなど、当時最高の教育を受けている。特に剣術は、神道無念流免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門で後に代官所手代となる斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人にも数えられている。その他、蘭学、砲術などを学んだ。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られる。英龍も施政の公正に勤め、“二宮尊徳”を招聘して農地の改良などを行った。また嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進。こうした領民を思う英龍の姿勢に、彼を「世直し江川大明神」と呼んで領民は敬愛した。現在に至っても韮山では江川への強い愛着を持っている事が伺われるそうだ。


●御殿山――江戸時代初期から元禄15(1702)年にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。
桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661〜73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のほか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。塙保己一は寛政10(1798)年5月に幕府から御殿山の一角を拝借・群書類従がここで印刷、刊行された。文政7(1824)年の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。
幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。


●歌川広重の描いた「品川すさき」の絵に見られる通り、「利田神社(かがたじんじゃ)」周囲は“洲崎”、海だった。絵の先端にある弁天堂が今ある利田神社。
旧東海道の東手、目の前は海だった。品川、芝浦、州崎等では、広重がたくさん描画している通り、潮干狩りが盛んに行われていた。潮干狩りは江戸時代には花見と共に年中行事的な大衆行楽だった。

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